第三日目
8. 勝連城跡
 Satosi は眠れなかった。ホテルのベッドに疲れた身を横たえ、差し込む街灯の明かりが斜めに横切る暗い天井を見上げながら、眠りに落ちようとしない躰に当惑し切っていた。深夜のコザが、遠い潮騒のように気配を送ってくる。時には半睡状態にまでいきながら、その気配に呼び戻されるようにして覚醒と半睡を幾度も繰り返している内に、眠ろうという気持ちも無くなってしまった。それより写真を撮りに行きたくなっていた。今日はのんびり勝連城にでも行こうかと漠然と考えていたが、夜明けの朝日で勝連城を撮ったらどうだろう、今からなら夜明けに間に合う、そのことに気付くとあっという間にベッドを飛び下りて支度にかかった。午前2時30分だった。静まり返ったコザの裏通りで一昨日以来の原付きバイクのカギ穴にキーを押し込むと、うるさくするなよと念じながら慎重にスターターボタンを押した。  勝連城(カツレンジョウ、カツレングスク)跡は、大平洋に細く突き出した勝連半島の付け根にある。海抜100mほどの高さに屹立する断崖の上に造られ、頂上の一の郭跡からは南に中城(ナカグスク)湾と大平洋、逆を向けば金武(キン)湾を一望にできる。崖に近付くものは地上からであろうと海からであろうとたちどころに察知できる好条件である。沖縄に残る城の中では最も古く、築城は資料によって11〜12世紀頃または12〜13世紀頃と分かれており、築城者も定かでない。崖上に聳え立つ壮麗な石組みはち密さを極め、また崖の地形に合わせて微妙なウエーブを造るなどその高度な技術は大和のものとは違う系列にあることが感じられる。構造は郭と呼ばれる五つの平地を頂上に向けて階段状に配置し、現在駐車場としても使われる草ぼうぼうの空き地が四の郭にあたる。特に史跡施設として管理整備されている訳ではなく、いってみれば野ざらし状態。24時間いついっても出入り自由である。照明施設もないので夜は月明かりしかなく、返って悠久の古城の雰囲気を味わえるだろう。一部では復元工事なども行なわれているようだ。  15世紀半ばにこのグスクを治めた人物は琉球の歴史の中にも名を残している。

 14世紀後半、沖縄の地には各地に豪族が立ち始め、とりわけ北山(今帰仁城)、中山(浦添城のちに首里城に遷る)、南山(島尻大里城)と呼ばれる独立王国が権勢を競い独自に中国、朝鮮、東南アジア、大和などと交易を結ぶことによって国力を強めていた。いわゆる琉球三山時代である。このころに中国から持ち帰られたと思われる文物が各城の遺構から多く出土している。北山王は1383年から1415年にかけて18回も中国皇帝に使者を送ったという記録も残っている。中でも急速に国力を強めた中山の尚把志(ショウハシ)王は15世紀前半に北山、南山を叩き、琉球の統一に成功した。しかしこの頃、三山とは別に勢力を強めて来ていたのが勝連按司(アジ、城主、国王)、阿麻和利(アマワリ、天下る偉人)だった。
 阿麻和利は一介の平民だったが、どういう理由でか三十にもならない内に十代目勝連城按司の地位に上り詰め、国内を整備し、中国や大和との交易を行なって国を栄えさせ、勝連王国と呼ばれる程の力を貯えていた。勝連から近い美里の村史にこんな話しが残っているという。

 『勝連城内で観月会が催されたある夜、城に仕えていた阿麻和利は遠方から城に向かってくる行列の明かりを見つけて按司に報告した。按司は物見台に上がって、断崖に立つ城壁から身を乗り出すようにしてその行列を眺めはじめた。とっさに阿麻和利は按司の背中を突いて転落死させ、その後、自らが按司の座に就いた。行列は阿麻和利が美里村民に頼んだものだった』
 真偽は分からないが、伝説の人物にはありがちな挿話ではある。先代の按司、茂知附(モチヅキ)は暴君で領民が苦しめられていたので阿麻和利のクーデターは領民家臣達から支持を受けたともいう。いずれにせよ阿麻和利は地元では勝連を栄えさせた名君としてオモロ(古謡)にも残り、蜘蛛の巣から魚網を思い付いて漁民に与えたとか、モウアシビという娯楽を広めたとかの伝説も数多くあり、機智機略に富んだ人物として捉えられているようだ。しかし、ある事件を切っ掛けに阿麻和利はまったく両極端の人物像を後世に残すこととなる。  以下は伝承として語り継がられている物語り「護佐丸(ゴサマル)、阿麻和利の変」の概要である。


 『ようやく三山を平定し頂点に立った中山だったが、新興勢力勝連の勃興は統一王朝の平安を脅かしかねない目障りな存在であった。第六代首里王府国王、尚泰久(ショウタイキュウ)は、阿麻和利をあえて呼び寄せ、自らの王女、百度踏揚(モモトフミアガリ)を嫁にとらせて懐柔策に出る一方、首里城と勝連城との中間に位置する中城城(ナカグスクグスク)に、北山討伐で功績を上げた忠臣、護佐丸を配し、勝連を牽制すると共に首里の防護とした。しかし琉球統一の野心を抱く阿麻和利はさらに上手だった。時は1458年。阿麻和利は護佐丸が謀反を企んで兵を揃えていると尚泰久に注進する。まさかあの護佐丸がと疑う泰久を説得して密偵を送らせてみると確かに兵馬を準備しているようだとの知らせが入る。驚いた泰久は阿麻和利に王府軍の指揮をとらせ護佐丸討伐を命じた。王府に仕える忠臣である護佐丸は、もとより謀反など企んではいない。濡れ衣と分かっていても王府の軍旗に逆らうことができず無抵抗のまま城は陥落。逆賊の濡れ衣を着せられたまま一族は城内で自害した。ただしこの時、子供が一人乳母によって城外へ助け出されている。うまく邪魔者の排除に成功した阿麻和利は次に首里王府攻撃の機を伺う。ところがこの奸計に百度踏揚が気付いた。父の大事と、首里から付け人として来ていた鬼大城(オニオオグスク)に守られながら夜道を首里へ走った。すぐに阿麻和利も気付き、追っ手を差し向けると共に首里王府攻撃の軍を興す。迫る追っ手からようやく逃れて来た踏揚達から全てを聞いた尚泰久は直ちに迎撃の準備を行なう。程なく押し寄せて来た阿麻和利の軍は首里城に火をかける。必死の攻防が続いたが、阿麻和利軍は迎撃体制の出来ていた王府軍を攻め切ることができず勝連城へ退却。泰久は鬼大城を王府軍の総大将としてこれを追わせた。牙城勝連を血染めにする程の激戦の末に阿麻和利は鬼大城の手で斬首。勝連の軍は王府軍に投降した。』


 一時代を築いた阿麻和利は地元勝連での評価をよそに、悪者、逆賊として琉球の歴史に不名誉な名を残すこととなった。鬼大城はこの功績により勝連城と百度踏揚を妻に賜ったというが、王府の一属城となった勝連城にその後かつてのような栄華は訪れなかったようだ。この史実は琉球芸能である組踊「二童敵討(にどうてぃちうち)」、「護佐丸」などのモチーフとなり、逃がれた護佐丸の子供がにっくき父の仇、阿麻和利を討つという話しとなって今も上演されている。忠臣蔵の沖縄版みたいなものである。
 地元勝連で領民達の信頼を得、力を付けて来た阿麻和利は、さらに自国を発展させようとして、そのころ三山を平定した中山に近付こうとしたに違いない。まだ若く、機智に富み、将来性のある勝連按司は疑心暗鬼の国王尚泰久から見れば、味方にすれば大きな力に、しかし敵に回せば面倒な相手となりそうな存在であっただろう。また、大きな威勢を張るようになって来た護佐丸にも煙たい思いを抱いていたのではなかったか。娘の百度踏揚を阿麻和利に贈ったのは鬼大城を勝連城に入れさせるための琉球王の奸計ではなかったか。その時既に、自らの手を汚さずに邪魔者達を一掃排除しようという王の策略が蠢き出していたのではなかったか。
 この戦いを最後に首里王府はほぼ完全に琉球を平定したが、そのわずか12年後に家臣のクーデターに倒れ、第一尚氏王朝は消滅する。

 なお、勝連城は、2000年に開催された世界遺産委員会で、首里城跡(那覇市)や中城城跡(北中城村、中城村)など九カ所の城跡や名勝とともに「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産への登録が決まった。
一の郭から夜明け
 道を間違えて時間がかかったが4時には着いた。城の下の野っぱらは森に囲まれて寂し気だし、照明もなく、ヘッドライトを消したら真っ暗だ。月明かりがなかったらどうにもならなかった。夜空に黒々とそびえる城を登り結構な高度のある城壁のてっぺんに座って、凪いだ水面に月明かりを反射する海を見ながら夜明けを待った。時々小さな漁船が港を出て行く。美しい景色だが暗すぎてデジカメでは写せない。
 4時半になっても夜明けが来ない。そうか、うっかりしていた。沖縄には時差があるのだった。果てしなく長く感じる時間を過ごして、ようやく東の空が明るみだしたのは5時半ころだった。写真は一の郭から。平安座島(ヘンザジマ)と、そこにつながる海中道路が見える。
四脚門内
 木製の扉があったと推測されている四脚門の跡を内側から。三の郭への入り口。門の外はおそろしく急角度な坂となっている。ハンググライダーを背負ってここから駆け出していったら海まで飛べる。
四脚門前
 四脚門跡。
四脚門
 四脚門跡に至る急角度な石畳道。
一の郭への階段
 二の郭から一の郭(最高所)へつづく石畳と階段。これも手を着く程の急斜面。しかも凸凹がひどく、非常に足場が悪い。
下から全景
 ようやく城に陽が当たって来た。四の郭から三の郭の城壁を見上げる。こんな草ヤブに踏み込んでよくハブに噛まれなかったと思い、後でヒヤッとした写真である。勝連城の写真ではもうひとつヒヤッとすることがある。
城壁のウエーブ
 城壁は不規則なウエーブを描いている。基礎となる崖の形状に合わせて石を積んでいるためだ。この不思議なウエーブによって勝連城は幽玄な趣を呈す。
三の郭への道
 三の郭へ登る石畳は急角度であるためハイヒールなどは危険である。しかも巨大なアフリカマイマイがたくさんいて、あちこちに踏み潰されている。
坂道から下界
 先ほど出て来た四脚門跡の前だが、門の前だけ階段になっている。横から見ると角度がいかに急であるかお分かりいただけるだろう。また、下界からの高度差も伺えよう。
三の郭
 三の郭。少し高くなっているところが二の郭。一番上が一の郭。三の郭に立つ一本の木の下は、近隣のノロ(神女)達が祈祷を行うトゥヌムトゥと呼ぶ祭祀所となっている。
城壁
 城壁に立って一の郭を望む。左側は目の眩むような断がい絶壁。感心なことに興醒めな転落防止柵など施していない。城壁の石材は沖縄特有の珊瑚質石灰岩である。阿麻和利は先代の城主を城壁から突き落として殺したと言う。
一の郭
 一の郭。何もない。ところどころに石灰岩の岩肌が露出している。中央付近には按司の威厳を維持する守り神である「コバツカサ神」を祀った穴の穿たれた岩があり、現在でも多くの人々が参拝に訪れるという。
西の海岸
 一の郭から西の景色を見る。埋め立てが進んで海は狭くなり、宅地化が進んでいる。
三の郭を見下ろす
 柱の遺構の整然と並んでいるのが二の郭。祭祀所の木のあるグリーンが三の郭。木の先が四脚門。蛇のように城壁がうねっている。
二の郭
 二の郭。当時の屋根瓦などが発掘されている。遠く遥かな海の広がりを眺めていると、舎殿の板間に座して同じように海を見つめていたであろう阿麻和利の、若く熱い情熱がざわざわと乗り移って胸が騒ぎ出す。
マイマイ1
 現在の勝連城按司「アフリカマイマイ」。日本では沖縄にしかいないといわれており、農産物を食い荒らすので法律によって持ち出しを禁止されているそうだが、日本全国にいるという資料もある。もともとはアフリカ南東部のマダガスカル島に生息していたが輸送ルートに乗って沖縄に来たらしい。激しい繁殖力を持つ。僕自身は勝連半島でしか見ていないが、勝連半島の畑作地などではウジャウジャという感じで見かけられた。
マイマイ2
 それだけではなく、こいつの体内には「広東住血線虫」が寄生している。これが人の口または皮膚から感染すると脳やせき髄に入り込み激しい頭痛と高熱を引き起こし死亡に至ることもある。2000年には沖縄で沢山の感染が報告され、7才の少女が犠牲となっているそうだ。satosi はこの写真をとっている時、そんなことは、ちーとも知らなかった。あとで知ってゾオゾーッとしたものだ。今のところ発症していない。
勝連遠望
 勝連を去って、具志川、美里などを回った後、コザから海に向かって丘を下っていく途中で、海を隔てた遥かな丘陵の上に勝連グスクが霞んで見えるのに気が付いた。直線にしたら5キロくらい。こんなに遠くまで按司の目は届いていた。"朝も早くから御苦労だったな、良かったらまたいつでも来い" そんなふうにいわれているような気がして、人目が無かったら手を振りたいぐらいだった。
9.平和祈念公園へ
沖縄トップページへ
デジぶらトップページへ
- このページは以下を参考にさせていただきました。(敬称略) -
・http://www.bekkoame.ne.jp/~yoseda/yhist0.html 与世田信忠 よせぴぃ〜パパのホームページ 夏姓家譜より
・http://www.ryukyushimpo.co.jp/hae/kaze15/h010517.html 琉球新報
・http://www.summit-okinawa.gr.jp/jp/gusuku/gusuku_1b/index2.htm 沖縄県サミット推進県民会議(1999)
・沖縄タイムス 2000年11月30日夕刊
・http://www.pref.okinawa.jp/index-j.html 沖縄県庁
・http://www.dab.hi-ho.ne.jp/c-hiroc/isan.htm 「勝連城跡」
・http://www.kobundo.net/kobundo_web/rensai/katsuren/ 光文堂印刷株式会社
・http://www-edu.pref.okinawa.jp/wh/object/Jobject/sub/historyE.html#katsurenjo 沖縄県教育委員会ネットワーク管理センター
・http://www.so-net.ne.jp/kagaku/naze/hon/cat_a_1_21.html SO-NETカガッキーズ
・http://www2.baynet.or.jp/~anplan/animal/20html/20-snail3.html ANPLAN
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