第三日目

9. 平和祈念公園

 同行のsatosiも部屋に帰り、ツキは写真を整理しながら泡盛をちびちびやっていた。明日の天気でも見ようかなとテレビをつけると在沖縄米軍キーステーションの深夜番組が展開中であった。どうも沖縄駐屯軍人ファミリー自身による素人演芸ショウのようだった。さすがは基地の街じゃわい、と思って眺めていたら、いつのまにか気を失っていたらしい。
 明日は糸満に行くんだとsatosiとホテルのオジーに宣言していたツキであった。といってもその時点では具体的なイメージがあったわけではない。オジーは「ほう、糸満にね、しっかり見てきなさいよー」と言っていた。 明日の夜は那覇に泊まるツキにとって、これがグレイスホテルでの最後の晩だ。
 部屋のエアコンがゴーゴー、テレビのノイズがジャージャーと鳴っている朝4時50分、カラスの鳴き声で目が醒めた。そうだ、早朝の「平和の礎」に行ってみようか。今なら間に合う。疲れは溜まっていたが気持ちは走っていた。空は黒から濃い紫に変わるところだ。荷物を車に積みながら、前の晩いとまを告げたオジーの屈託のない笑顔を思い出していた。
tv
夜明け
 5時56分、車のバックミラーに朝日が映る。沖縄自動車道西原ジャンクションを過ぎたあたりだったろうか。高速道路上だったが、しばし車を止めて刻々と変わる美しい空を見つめていた。
この同じ瞬間に、satosiも勝連城のてっぺんから同じ太陽を見つめていたとは知る由もない。
工場群
 目を少し南に転ずると、工業地帯だろうか、煙突が見える。なんと言うことも無い風景に違いなかったが、新しさと古さが同居する沖縄の一面をチラっと見たような気がする。
高速道路
 沖縄道の南の終点、南風原南インターを下りる。空港まで伸びる新しい高速道路がすぐそこまできていた。沖縄もこれからどんどん変わっていくのだろうな。ここから国道をさらに南下、魔文仁(マブニ)の丘を目指す。
祈念堂塔
 6時30分、ようやく目指していた魔文仁の丘に辿りついた。森の向こうに沖縄平和祈念堂の塔が聳える。七大陸と合掌をイメージしたその塔は、永久の平和を願う沖縄の人々のシンボルである。
糸満の海
 魔文仁の丘の断崖から穏やかな糸満の海を眺めた。潮騒がはるか下のほうから聞こえてきて怖いほどの静寂に包まれる。沖縄戦の終末、追い詰められた何人もの民間人がこの断崖の高みから命を散らしている。銃弾に撃たれての死だけではない。日本が必ず戦争に勝つと信じ、あるいは自決を否応無しに迫られて、この崖から身を投じたのだ。鬼畜米英というが日本人の中にもそれがあったと思う。本当の鬼畜は戦争という行為を促す、或いは肯定するところに存在しているのだと感じざるを得ない。
平和の礎
 平和の礎(イシジ)。同じ碑文が英語、韓国語、中国語で刻まれている。平和の礎は1996年6月、沖縄戦終結50周年記念事業として建立された刻名碑だ。ここに名前を刻まれているのは、15年戦争といわれた満州事変での沖縄県人戦没者約4万人、沖縄戦戦没者約20万人の、およそ24万人である。沖縄戦戦没者のおおまかな内訳は米軍12,520人、沖縄県出身日本軍兵士・軍属28,228人、沖縄県外出身日本軍兵士65,908人、一般住民94,000人の計200,656人。
 しかしこの数は戦後の厚生省の調査によるもので、実態はこの数をはるかに上回っている。戦中に日本軍の指示によって戸籍台帳をほとんど焼失させられたこともあるが、激しい戦闘で一家全員死亡ということも珍しいことでなく、確認のしようが無い、というのが現実だ。推定では軍人・軍属を含めた沖縄県民の犠牲者は、ここに刻まれている約12万人よりはるかに多い15万人以上といわれている。
 碑の前には、ここを訪れる人達によって鮮やかな花が絶えることがない。
献花
 
全景
 刻名碑は沖縄県民、本土出身者、米・英国軍人、朝鮮半島・台湾出身者の順で分類されている。最も多い沖縄県の場合は各地方、字(あざ)別、50音別で分類されていて、どこの集落で被害が多かったか一目で判るようになっている。しかし、朝鮮半島・台湾の部分は空白が多く、調査不足ということもあるが、遺族、関係者の中に、日本軍関係者と同列にされたくないという思いで刻銘を拒否しているという事実もある。
礎
 「平和の礎」の基本理念は、戦没者の追悼と平和祈念、戦争体験の教訓と継承、安らぎと学びの場の三つ。かつて戦争という行為のために敵対し、沖縄の地で殺し合い、亡くなった殆どすべての人の名前が記されている。最も被害の大きかった沖縄県民だからこそ敵も味方もなく、戦争のむごさ、むなしさ、悲しさを、これからの未来恒久の平和のために伝えたい、という心からの願いを感じるのである。
米英碑
 米、英国軍兵士の刻銘碑。勝利と引き換えに彼等も1万2千人以上の犠牲者を出した。戦争に勝つことの意味を改めて考えさせられる。2000年7月21日、クリントン米大統領が沖縄サミット出席に先駆けて「平和の礎」を訪れる。米大統領がここ沖縄の土を踏むのは1960年のアイゼンハワー以来40年ぶりのことである。クリントン大統領は自国の沖縄戦戦没者の刻銘碑をはじめ、30分をかけてすべての刻銘碑をまわったという。
米英碑部分
本土出身者碑
 本土出身戦没者の刻銘碑。早朝に誰かが手向けたのだろう。まだ瑞々しい花束と線香がそっと置かれていた。前線で戦ったのは殆どが若い兵士であったという。祖国のためと教えられながら、死ぬ時はやはり家族のことを思ったに違いない。戦後56年、生きていれば70歳を超えて、孫に囲まれた幸せな日々を送っていたかもしれない。
沖縄出身碑
 沖縄県民戦没者の刻銘碑。女性の名前が目立つ。いかに民間人の犠牲者が多かったかを物語る。

 同じ碑に同じ名前が複数見られることもある。それはもちろん間違って重複したのではなく、同じ名前の人が同じ地域に複数居た、ということだ。それは、その人それぞれが確かにそこに居て、同じ戦争で亡くなったという証である。

 名前を碑に刻むにあたっては、その原本は公的記録のあるものを始め、各自治体で把握している記録を基に名簿を作成している。また、一家全滅、乳幼児などの確認が困難な場合も証言、その他の方法ででき得るかぎり調べて名簿に加えていっている。刻銘碑全体では、まだ空白部分が1万人分ほど残っているが、それをすべて埋め尽くすのはこれから益々困難になっていくであろう。
 魔文仁の丘に登った。木に囲まれた刻銘碑の向こうに見える赤い屋根の建物は去年4月に新築、開館した沖縄県立平和祈念資料館である。資料館の展示は住民の目線であくまでも事実に基づいた沖縄戦の全体を知るために構成されている。
 開館直前、展示の内容が一部変えられそうになったことがある。戦争中のガマ内部(次項アブチラガマで詳しく述べようと思う)をリアルに再現した部分で、避難している住民を日本兵が銃剣で威嚇し母親が赤子の口を封じるシーンであった。それを、ここを訪れる元日本兵の遺族の気持ちに配慮して兵士の手から銃を下ろし、母親の姿も放心した状態に変えようとした。しかし、このことは沖縄県議会でも話し合いが持たれ、結局本来の事実により近い元の展示となったのである。誰かに配慮するより事実を自分の目で見て判断を下す。見る人によっては驚きや悲しみが深まる内容が多く、色々考えさせられるが、この姿勢こそが沖縄県民の根底にある戦争に対する気持ちであろう。
青森県
 魔文仁の丘は各都道府県を始め、各種団体の慰霊の塔が50基ほど立ち並ぶ霊場になっている。自分の故郷は青森県だが、たまたま近しい人の中に沖縄戦で亡くなった人はいない。しかし、やはり冥福を祈らずにはいられないのだった。
中央通路
 "平和の広場" へ続く中央通路。暑さのためか人影は見えない。しかし、終戦記念日には沖縄各地や本土からの参拝者で一杯になる。
 刻銘碑に日陰をもたらすモモタマナの葉陰でセミが思いっきり鳴いていた。何千というセミの合唱だけが、この静けさを覆っていた。
玉城門
 一度「平和の礎」を離れようと思い立ち、古い城跡を訪ねる。ここは「平和の礎」から東へ8キロほどのところにある、玉城(タマグスク)城跡である。海を見下ろす高台にある山城だ。唯一城の跡として残された城門。自然石をくりぬいてある。
玉城外郭からの景色
 城郭のあったらしい崖っぷちから海を望む。かつて城が栄えていた時代には、ここから海の往来を見張っていたのかも知れない。戦時中こうした高台に日本軍が高射砲を据えようとしたが、役に立つ前に艦砲射撃によって、ことごとく叩き潰された。戦後は米軍による基地建設のため、城壁は資材として持ち去られ跡形もない。
ゴルフ場
 城門から陸地側を見ると広大なゴルフ場が広がっていた。戦争中、こうした海に近い丘陵は米軍に追い立てられた民間人が、決死の覚悟で逃げ惑ったそうである。戦後すぐの頃は砲弾に倒れ、半ば白骨化した死体が累々と散らばっていたらしい。もちろんこの丘の遺体はすべて回収されたのだろう。しかし、この周辺を含めて沖縄南部一帯にある、崩れてしまったガマや足も踏み入れられないような森の中には、回収されていない遺骨が未だに数多く残されているのだそうだ。ゴルフが悪いなどというつもりはまったくない。しかしあまりにも至近距離にまだ終わらない沖縄の戦後がある。
平和の広場
 なぜか、再び糸満平和祈念公園に戻ってきてしまった。何か予感があったとしか思えなかった。平和の広場に人々が集まっている。風が心地良い。
平和の広場
 「ここ魔文仁の断崖からも、たくさん若い人達が身を投じたんですね。ひめゆりの女学生もいたと思います。もちろん、そういう悲劇が起こったのはここだけではありません。あの時、沖縄の最南端にみんな追い詰められていたんですね。米軍に掴まったら若い女性は陵辱されて、戦車でひき殺されると教え込まれていたんです。避難していたガマから決死の思いで脱出して、砲弾にさらされて、もうどうしようもなかったんです。みんな生きていたかったでしょうに」糸満の海風を浴びながらワイシャツの男性の声が続く。
 「かつて日本軍はアジア各地で現地住民に対して言葉で言えないような事をしたこともあったのです。そのことを記憶していた日本軍は情報漏洩を防ぐという名目もあわせて、決して米軍に投降してはならない。それより潔く自決の道をとることを教え込んだのです」聞いている者は言葉もなく、美しい糸満の海を見つめるのみであった。
平和の礎全景
 資料館二階のバルコニーから「平和の礎」を眺める。デザインコンセプトは「平和の波 永遠なれ」である。扇の要である平和の広場の中心では沖縄慰霊の日に平和の火を灯すことになっている。
参拝者1
 この暑いさなか、刻銘碑を訪れている人たちが何組かいた。
参拝者2
 この人は親戚の叔父が兵隊にとられ、戦闘のために怪我をし、それが元で亡くなったらしい。亡くなったとき、まだ18歳になったばかりであったそうだ。
参拝者3
 日傘も差さずにじっと名前に見入る。身内の他に同じ集落で生活していた隣人の名前が刻まれているのだそうだ。
参拝者4
 終戦記念日は大変込み合って年老いた体には辛いので、こうして少し前に「平和の礎」を訪れるのだそうだ。話し掛けると「終戦はガマの中でむかえました」とつぶやくように語り、あとは沈黙してしまった。もっとたくさんのことを聞きたかったのだが、横顔は、そんなこと、簡単に言えないよ、と言っているようでもあり、心中を察するより他になかった。深いセミ時雨にじっと耳を傾けて、しばらく木陰に佇んでいた。
参拝者5
 幼い子供達に、まだ戦争の本当の恐ろしさは理解できないかもしれない。しかし、こうしてあの戦争を生き延びた祖母と「平和の礎」を訪れるのは、先祖の墓にお参りするのとは別の印象を心に育むことになる。
参拝者6
 「私達も老いてしまいました。ここにこうして子供や孫達と来られるのはもうできないかもしれません。どうか許してほしいのです。ここにこうして生き長らえることができたのは、あなたのおかげなのです。本当は来年も来られたらいいのですが、もう体がだめになりそうなのです。もうすぐ、近くにいくことになるかもしれません。それまでは家で冥福を祈っています」揉み合わせた手の間から涙が伝い落ちていた。
参拝者7
 自分も辛いだろうに、連れ合いをかばうようにして静かに車椅子を押していった。あるいは、これ以上悲しませないために連れ合いに顔を見せないようにしていたのだろうか。
サトウキビ
 「平和の礎」の日陰で聞いたおばあさんの「ガマ」という言葉の響きと、毅然とした横顔が忘れられなかった。これはどうしても本当に「ガマ」を見なくては収まるはずもなかった。道端のサトウキビ畑の脇に車を止め、コンビニのお握りを温くなったお茶で流し込みながら、乏しい資料を読み漁る。簡単な資料だけでは何も分からなかった。「ああ、ここのサトウキビは根元が黒くなって、収穫も真近だなあ」などと、あてもない方へ気持ちが揺れ動いていくのであった。
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